棺の中の伯母の顔があまりにも美しくて絶句しました。
伯母は転倒をきっかけに脳に障害を負ってしまい、6年もの間、今までの伯母とは全く違う人格になってしまったように見えていました。
それをまわりの家族や親戚はかわいそうと思い、元通りになればいいのにとずっと思っていました。
小さな子どものようにしか表現出来なくなっていた伯母を、わたしたちはそんなふうに思ってきたのです。
でも、昨日の伯母の顔を見て、それは本当にそうだったのだろうかと疑いたくなりました。
もしかしたら、最後の6年間、伯母は本当にピュアな部分だけで純粋に生きてこられたのかもしれないなぁと。
それはかわいそうなことではなくて、もしかしたらある意味では素敵なことだったのかもしれないと。
こればかりは今伯母に聞いてみることなどできませんし、誰にもわからないのだけど・・・
でもあの棺の中の伯母を見ていたら、生ききった人の顔にみえたし、ありがとうという言葉しかでてきませんでした。
通夜も葬儀も、近しい身内だけの家族葬でした。
伯母は独身だったので伴侶もこどももありませんでした。
本当に静かな葬儀でした。
伯母の母親であるわたしの祖母は93歳です。いろいろなことをすぐに忘れてしまう年になっていますが、いつも着物をきちんと着て、礼儀正しく、ことばもとても丁寧で、とても美しい女性です。
娘の最後に立ち会う寂しさを思うと涙がでました。
けれども、本当に葬儀でもなければ集まることのない親戚との再会はとても嬉しくて、皆伯母との別れの寂しさもありましたが、待ち時間などの久しぶりの会話ではあちこちで笑顔が溢れていました。
わたしはふだん寂しいと思うことはほとんどありません。
でも、確実に年を重ねている家族や親戚を目の当たりにして、この中の誰か一人でも欠けてしまうのはなんて寂しいことなんだろうと思いました。
この完璧なバランスは今この瞬間を通り過ぎれば変化してしまう、そのことがなんとも寂しいことに思えて、このまま誰も何も変わらなければ良いのに・・・と、そんなことを初めてしみじみ思いました。
でも、変わらないということは絶対にありえないこと。
世の中で「絶対」という言葉はなかなか使えませんが、「ずっと何も変わらない」ということだけは絶対にありえません。
逆に言えば、「すべては移り変わる」ことだけが絶対的な真実なのですよね。
だから、みんなこのまま変わらないで欲しいという、強烈な寂しさを伴う想いも大事に感じつつ、それでも変わった先、別れの先にある未知の出会いだったり、未知の喜びもまたあるのだなぁと、それは素晴らしいことだなぁとも思いました。
お別れをするときにはいつも思いますが、人はこの世を去るときに、残されたものたちに、その人にとっての一番大きな教えを残して行くなぁと思います。
去ることでしか教えられないものをかならず教えてくれるのだなぁと。
そういうものを受け取り、わたしたちは寂しさに堪えながらまた毎日を生きるんですね。
有り難いことだなぁと思います。
ありがとう。
写真は、わたしが子どもの頃に伯母がくれたアンティークのアクセサリーです。
わたしが小学校高学年だったころじゃないかと思います。
わたしは伯母のアクセサリーボックスをきっといつも羨望のまなざしで見ていたのでしょうね。(笑)
「みほちゃんが大切にしてくれるならあげるわよ。本当に大切にしてね。」と言ってもらったのをすごく覚えています。
だから今までずっと大切に持っているのです。
これを見ていて、伯母は赤が好きだったんだろうか?と思います。
たしかに伯母を色に例えるとやっぱり赤かなぁと思います。
赤い服を着ているところは覚えていないけど、伯母のどこかに写真のようなきらびやかな赤をいつも感じました。
今わたしが石に惹かれ、美しいものに惹かれ、アクセサリーを作っているのは、もしかしたら伯母とのつながりや縁が影響しているのかもしれないですね。
目には見えないつながりが確実に存在していて、わたしたちはたくさんの人との縁や出来事に影響され、つながっているんだなぁと思います。
過去も、未知の未来も大切におもいつつ、今を精一杯生きたいなぁと、あらためて思うお別れでした。
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